Seiji Ozawa 指揮者小澤征爾~
- 外心 豊田
- 2017年1月6日
- 読了時間: 7分
いまもなお輝き続ける81歳──音楽家 兼 楽天家
2017-01-04 gqjapan
LIFETIME ACHIEVEMENT: Seiji Ozawa, Conductor
Author: 川上康介(GQ)
Tag: ミュージック 、 Men of the Year 、 Men of the Year 2016
文・川上康介 Photos: Maciej Kucia @ AVGVST
2016年、最も輝いた男たちを称えるアワード「GQ Men of the Year 2016」。ライフタイム・アチーブメント賞に輝いたのは、指揮者の小澤征爾だ。
わずか数ページで彼の人生のすべてを伝えることは不可能だ。ただひとつの道を真摯に歩き続けて伝説の域に達した男は、とにかく明るくつねに笑っていた。世界が認めた男の生きざまに触れてほしい。
もう50年以上前から「世界の小澤」と呼ばれ、クラシック界をリードしてきた彼を2016年の”Men of the Year”として選出したのは、彼が2013年に指揮したラヴェル作曲の歌劇『こどもと魔法』を収録したアルバムが、グラミー賞の最優秀オペラ録音賞を受賞したことが最大の理由だ。この受賞にはマエストロも大いに喜んだ。それは、受賞アルバムが長野県で開催された「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」(現在は「セイジ・オザワ 松本フェスティバル」に改称)でサイトウ・キネン・オーケストラが演奏したものだったからだ。
サイトウ・キネン・オーケストラ
「このオーケストラはもともと、1984年に私の恩師である齋藤秀雄先生の、没後10年を偲ぶメモリアルコンサートのために教え子である僕らが集まり始めたものです。それが縁あって松本市をホームタウンにして25年以上活動してきて、素晴らしいオーケストラになりました。歌い手たちも素晴らしかったし、このオペラには僕も思い入れがあって、気合が入っていました。それが受賞したのが嬉しかったですね。今までも何度も候補になっていたんですが(過去8回)、30年近く音楽監督をやったボストン交響楽団ではなく松本でとったというのが面白いですね。ボストンの連中は悔しがるかもしれませんが(笑)」
このグラミー受賞は、とはいえ、彼の数え切れないほどの功績のほんの一部でしかない。この偉大な指揮者が、ざっとこの50年ほどを見渡してみて、「世界に誇れる日本人」であることについては多言を要さない。
小学生でピアノを始め、中学生から指揮者の道に進み、生涯の恩師となる齋藤秀雄と出会う。以後、順調に指揮者の道を歩んでいた小澤に転機が訪れたのは24歳のときだった。貨物船で単身フランスへ渡り、そこで世界的指揮者であったレナード・バーンスタインやヘルベルト・フォン・カラヤンに見出され、「世界の小澤」への道を突き進むことになる──。
「音楽をやめたいと思ったことは、一度もないですね。つらかったのは、成城(学園)の中学生時代ラグビーでケガをしたとき。親に内緒でやっていたんですが、ケガをしたからバレてしまった。病院に来た母親に泣かれましてね。なにしろ食べるものもロクになかった時代に、ネクタイを作る内職をしてまで僕にピアノを習わせていましたから」
70年以上前、父と兄が三日三晩かけて横浜から立川までリアカーで運んだというピアノの前で。少し弾いてみて「ああ、ダメだ」と苦笑い。古びていて音の調律もされていないが、そこには家族の思いが息づいている。譜面台に置かれた譜面も実際に小澤が使っているものだ。小澤自身の手による驚くほどにたくさんの書き込みがあった。
インタビュー場所の小澤の事務所には、彼が小学生のころに弾いていたピアノがいまも残っている。小澤の才能を信じた父と兄が横浜の知人から譲ってもらい、当時家族が暮らしていた立川まで三日三晩かけてリアカーで運んだピアノだ。
「(そのときのケガのために)もう音楽を諦めなきゃいけないんだと思い、ピアノの先生のところに行ったら『指揮者をやってみたらどうか』って。面白そうだなあとは思ったんですが、そのころ僕はまだオーケストラというものを聞いたこともなかったんですよ(笑)」
70年以上音楽をやってきて、精一杯思い出して引き出した“つらかった思い出”は、中学生時代のものだった。しかもそのつらかった出来事が現在の彼を生み出すきっかけになったのだ。
ボイコット事件
「僕がここまでやってこられたのは、出会いに恵まれたからだと思います。困難があると必ず誰かが現れて、助けてくれた。齋藤先生、バーンスタイン先生、カラヤン先生との出会いもそうですし、1962年にNHK交響楽団とトラブルになり、演奏をボイコットされたときは、浅利慶太さんや三島由紀夫さん、大江健三郎さんらが『小澤征爾の音楽を聴く会』を開いてくれました。オペラの指揮をするようになったのは、カラヤン先生のおかげです。当時、僕はオペラを見たことがなかったんですが、先生は演劇の演出もしていたので、オーケストラの指揮を僕に任せてくれたんです。あのときは先生が演劇の練習をしている間によく居眠りをしていたので、“スリーピー・セイジ”なんてニックネームをつけられました(笑)」
音楽の道で困ったとき、いつも誰かに助けてもらってきたという思いがあるからこそ、現在小澤は、後進の音楽家を育てる活動に力を入れている。──オペラを通してアジア各国の若手音楽家を育成することを目的とした「小澤征爾音楽塾」。クワルテットを通して弦楽器奏者を育成する「小澤国際室内アカデミー奥志賀」。そしてそのヨーロッパ版である「Seiji Ozawa International Academy Switzerland」。さらには、「セイジ・オザワ 松本フェスティバル」も教育の場として機能している。
小澤は、80歳を超えたいまもまめに現場に足を運び、若手音楽家の前で腕を振り続けている。
「僕自身が受けてきた素晴らしい教育を少しでも多くの若者に伝えたいと思っているんです。若い音楽家はふとしたきっかけで一気に伸びることもある。そういう瞬間に立ち合えるのは、本当にうれしい。僕自身も彼らと触れ合うことで、いろいろと発見することがあります」
終始穏やかな表情で話していた小澤だったが、撮影のためにコンダクタージャケットに袖を通した瞬間、表情が引き締まり、背筋が伸びたように感じた。演奏服のジャケットは、森英恵さんが作ったものを長年愛用しているそう。「今日は表参道でハンバーガーを食べたよ」。大病を克服した81歳とは思えない快活さが印象的だった。
恥ずかしながら、音楽を聴き、語れるだけの耳も知見も持っていない。美しい交響曲を聞いても、そのオーケストラを指揮しているのがカラヤンなのかバーンスタインなのか小澤征爾なのか、想像することすらできない。だが、小澤征爾という人間を前にして、彼の語る言葉を聞き、茶目っ気あふれる表情や人柄に触れると、「この人に指揮してもらいたい」という気持ちになる音楽家の心情が理解できる。それは、彼が音楽から愛されているのと同じくらい、いやそれ以上に音楽を愛するのはもちろん、音楽と生きることを楽しんでいることが伝わってくるからなのだろう。
なんとかなるさ
「もともと楽天的なんですよ。いつもなんとかなるだろうと思っている。忙しかったころは、毎週ボストンで新しいプログラムをやって、世界各地での客演もやって、それでたまに日本に帰ってきて、とにかく働き続けていました。そうなると、いちいちクヨクヨしていられない。楽天家にならなきゃやっていられなかったんです。病気で倒れちゃったときも『これはこれで悪くない。孫と過ごせるぞ』って思いましたから(笑)」
音楽家でなくとも、彼から学ぶことはたくさんある。自由に、朗らかに、前向きに──。人生を謳歌する小澤征爾は、オーケストラのコンダクターであり、そして楽団員でない私たちにとっては人生のコンダクターなのだ。
世界に挑み続ける小澤征爾のヒストリー
1951
齋藤秀雄指揮教室に入門。55年には齋藤が教授をつとめる桐朋学園短期大学に入学。57年に卒業。この頃から指揮者としての活動を始める。
1959
貨物船で渡仏。カラヤン指揮者コンクールで1位となりカラヤンに師事。61年、ニューヨーク・フィルハーモニックでレナード・バーンスタインと出会う。
1964
シカゴ交響楽団の音楽祭で指揮者が急病になり、急遽、NYにいた小澤が招聘され音楽監督に就任。音楽祭を成功に導いたことで名声を高める。
1973
米5大オーケストラのひとつ、ボストン交響楽団の音楽監督に就任。以後2002年まで過去最長の期間で同職をつとめる。世界中での客演も増える。

1984
齋藤秀雄メモリアルコンサートを開催。サイトウ・キネン・オーケストラ誕生のきっかけとなる。98年の長野五輪では音楽監督をつとめる。
2002
日本人で初めてウィーン・フィルニューイヤーコンサートを指揮。同年、ウィーン国立歌劇場の音楽監督にも就任した(2006年体調不良で退任)。
小澤征爾
1935年、満州国生まれ。23歳で渡欧し、世界有数の交響楽団を指揮。現在は自らの音楽活動のほか、『小澤征爾音楽塾』などで後進の指導にも力を入れている。今年、グラミー賞オペラ録音賞を受賞。ケネディ・センター名誉賞、文化勲章、名誉都民など受賞歴は多数。『ボクの音楽武者修行』、『小澤征爾さんと、音楽について話をする』(村上春樹と共著)など、著書多数。
(記事引用)
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